Sunday, January 25, 2015

仕事に出かける時の自分、どんな顔してますか?

今日は日曜日だけれど、マイクは朝からHTML5 Conferenceという会議に意気揚々として出かけて行った。その晴れ晴れしい顔。見ている方まで楽しい気持ちになる。この人は、本当に仕事が好きなんだなあ、とあらためて感じる幸せな瞬間。思えば、「情熱が持てる仕事に就くことの重要さ」を教えてくれたのは、他でもないこのマイクだ。

今から6年前。私は30歳。9年ほど住んだアメリカを去り日本に帰国。ほどなく友人が慶應義塾大学のとある団体の研究室での事務職を勧めてくれた。空から降って来たような話だった。その研究室に居たのがマイク。彼の専門はWebで、何も知らない私に色々と教えてくれた。でも私の仕事は専ら事務や雑用。仕事にはすぐ慣れたし、同僚は皆親切だったが、いつしか私は退屈な毎日を送るようになる。その傍ら、マイクや他の同僚は仕事に熱い。熱くなれる何かと毎日向き合っている。そんな人達に囲まれて仕事をするうちに私も考えるようになった。私も私にしかできない、そして私自身が本当に熱くなれる、情熱が持てるような仕事に就きたい。

At W3C Keio SFC office. Look how BORED I look!! :)


Flirting? Yes :)

それから私は再び渡米をし大学院で3年間、言語学の勉強をしながら、学部生に日本語を教えることになる。正直、かなりハードだった。言語学の基礎的な知識も無い上、日本語を教えた経験も皆無だった。もう32歳になっていた私は一回りも若い同級生に体力の差を感じながらも、負けず嫌いなところだけは群を抜いていたので、頑張りすぎる日々が続き、体調を崩したり、情緒不安定になることもあった。その間もずっとマイクは応援してくれた。嬉しいことがあった時には喜びを分かち合い、壁にぶつかった時には最善の策を講じてくれた。だから、そうして取得した修士号はマイク無しでは語れない。


Graduation. Purdue University. May 2013

今私は自分が本当に熱くなれることをして、お金をもらえている。初めてのことだ。こんなにも幸せに満たされた気持ちになるとは、想像もしなかった。ケンタッキー州に住んでいた時に大学でピアノレッスンをしてくれたミスター・ルイスが口癖のように言っていた言葉を思い出す。先生はその時72歳。歩くのもままならないようなおじいさん先生だった。でもまだまだ現役でピアノを教え続けたい。この仕事からは一生引退したくないんだ。と言っていた。英語では、"I love my job, and I never want to retire!!" だったかな。もの凄く印象的だった。当時私はケンタッキー州にある自動車工場で購買やプランニングの仕事をしていた。それなりにやりがいもあったけれど、辞めたくない仕事なんて存在するのか?と懐疑的だった。今、ミスター・ルイスの言葉がホンモノだったことがわかる。私も日本語教師という職からリタイアしたくないと強く思うから。一生続けていきたいと思える仕事に出合えた幸せを噛み締めて、この気持ちを忘れずにいたい。

Sunday, January 4, 2015

読書感想文:東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

実家に帰省して一週間も経つと、いよいよ退屈になってくる。テレビも見飽きた。そこで二階の本棚から何冊か読みかけの本を持って来て、こたつに寝転がって一冊一冊読み潰していった。「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」(リリーフランキー著)はその中の一冊だ。



この本がベストセラーになった2005年。私は米国ケンタッキー州のはずれにある小さな町に住み、トヨタ自動車系列の会社に勤めていた。その年の暮れ、正月休みで一時帰国した時にこの本が目に留まり、買ってみて途中まで調子良く読んでいたものの、物語終盤でいざ「ボク」の「オカン」が死ぬ、という場面になってたまらなくなり、パタンと本を閉じたままになっていた。読んでいられなかったのだ。その時は、あと何日かしたらまた家族を残し、一人アメリカに戻らなければいけない、ということからか、親が死んでしまう話など読むに読めなかったのだ。あれから9年。私は帰国しまさかの結婚もして、両親も元気に同じ日本に住んでいる。今なら読めるだろう、と意を決して、そのしおりの挟まった本を再び開いた。



大きな間違いだった。何度となく涙で目の前の本の文字がかすみ、何度となく本を閉じた。親の死。親を持つ者には誰にも必ず訪れる、悲しすぎる出来事。できれば想像もしたくない。他人事に思っていたい。だからたとえ本の世界であっても、直面したくないのだ。そう実感した。

それでも涙を拭き、鼻水をかみ、何度も中断しながらもこの本を9年越しに読了することができた。物語の終わりに、「オカン」を亡くした「ボク」(リリーフランキー)は乗降客でごった返す東京駅にたたずみ、こんな風に綴っている:

『...今日も東京には、どこからか人が集まり溢れかえっている。
それぞれが...ひとりで生まれ、ひとりで生きているような顔をしている。
しかし、当然のことながら、そのひとりひとりには家族がいて、大切にすべきものがあって、心の中に広大な宇宙を持ち、そして、母親がいる。
この先いつか、或いはすでに、このすべての人たちがボクと同じ悲しみを経験する。

...人が母親から生まれる限り、この悲しみから逃れることはできない。
人の命に終わりがある限り、この恐怖と向かい合わずにはおれないのだから。』

当たり前の事だけれど、こうして文字にされると、しみじみと考えてしまうような文だ。
私は本を閉じて、こたつでテレビに夢中になっている親の姿を見た。
優しい言葉のひとつでもかけてあげたい。
「ありがとう」と言えるうちに何度も何度も言ってあげたい。

現実と向き合うのは、思ったより難しい。