Tuesday, July 22, 2014

A new translation of 「夕立の前」 BEFORE THE SUMMER EVENING RAIN SHOWER by Tanikawa

BEFORE THE SUMMER EVENING RAIN SHOWER
 

Stretching out on a chair like a dog and smelling the air of the summer
The sound of the harpsichord, which enchanted me so much only a moment ago,

Began to seem like some outrageous temptation
It's because of this stillness

Stillness sounds from where a number of faint lives resonate
Hum of horsefly, murmur from the distance, a breeze fluttering the leaves of grass


Can't hear the silence no matter how carefully you listen but

Stillness comes to our ears with ease
Through the dense atmosphere surrounding us

Silence belongs to a dilution of the infinity of the universe
Stillness is rooted in this Earth

But I wonder if I heard enough of it
When a woman accused me, sitting in this same chair
Sharp thorns of her words lead to hair roots intertwined underground

There was tranquility lurking in her voice, refusing to fade away into the silence of death  
Lightening flashed from clouds in the distance to the ground 
After a while, the rumbling of thunder slowly drew a long tail

The sound from the time before humans emerged in this world
We can hear still


---Shuntaro Tanikawa
(Translated by Naoko Smith)

Taken from the bridge near Shinjuku Central Park (7/22/14)


夕立の前(『世間知ラズ』より 1993)

谷川俊太郎

椅子の上でからだを伸ばし犬みたいに夏の空気を嗅ぐと
今しがたぼくをあんなにうっとりさせたチェンバロの音色が
何かけしからん誘惑のようにも思えてくる
それというのもこの静けさのせいだ

静けさはいくつものかすかな命の響き合うところから聞こえる
虻の羽音 遠くのせせらぎ 草の葉を小さく揺らす風......

いくら耳をすませても沈黙を聞くことは出来ないが
静けさは聞こうと思わなくとも聞こえてくる
ぼくらを取り囲む濃密な大気を伝わって
沈黙は宇宙の無限の希薄に属していて
静けさはこの地球に根ざしている

だがぼくはそれを十分に聞いただろうか
この同じ椅子に座って女がぼくを責めたとき
鋭いその言葉の棘は地下でからみあう毛根につながり
声には死の沈黙へと消え去ることを拒む静けさがひそんでいた

はるか彼方の雲から地上へ稲光りが走り
しばらくしてゆっくりと長く雷鳴が尾をひいた
人間がこの世界に出現する以前から響いていた音を
私たちは今なお聞くことが出来る

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Friday, June 13, 2014

Friday, June 6, 2014

梅雨入り the rainy season has begun in Tokyo

夜通し降り続いた雨
今朝も懲りずに
ベランダのバジルの葉を濡らしてる

梅雨どき生まれの私は
雨音を聴くと心躍り
そして落ち着く

今日もお気に入りの
グリーンの長靴履いて
東京の街を闊歩するのです




Tuesday, April 15, 2014

Without Saying Good-Bye

It was a nice warm spring day today.
Mike and I went to take a walk in the park in the evening.
The cherry blossoms were all gone, 

As if they never even existed to begin with.

We went to look for "our" cat, Non-chan,
Who's missing for days now.
No luck.
Neither of us wanted to articulate 

What that's supposed to mean.
Sometimes it's better
To leave things vague and unfinished.

I thought about my uncle again.
He's gone and nothing is left, 

Like those cherry trees in the park.
But he lived in this world.
He certainly did.
 

It was a long cold winter. 

When the spring finally came to Tokyo,
Without seeing cherry blossoms,
Non-chan and my uncle decided to go, 

Without saying good-bye.



Thursday, March 27, 2014

廣之おじさんのこと

伯父さんは、廣之おじさんは、奥沢の線路沿いにある
陽の当たらない小さなアパートの台所の床で、冷たくなっていた
おまわりさんが駆けつけて来るまでの間、マイクと抱き合って
声を上げて泣いた
目の前で起きていることが信じられなかった
この目に映るもの全てを、信じたくなかった

その夜お父さんが東京へ来て、警察で遺体を確認した
変わり果てたおじさんの姿に、動揺を隠せないでいた
私はそれを見て、陰でまた何度も泣いた

次の日、お父さんと一緒におじさんの部屋を整理した
買い物をしたレシートを見てみると
イチゴ、とあった
おじさんは苺が好きだったのだろうか
明日、棺に入れてあげようか
私はおじさんの事をまったく知らない

おじさんの携帯電話の電話帳には
ひらがなで名前が二つ、登録されてあった

いしくら たきお
いしくら ゆきひさ

二年前に亡くなったもう一人の叔父さんとお父さんの名前
おじさんからすると、ふたりの弟だ
おじさんは結婚したことがなかったし
友達もいなかった
おじさんの小さな世界には、頼れる人はお父さんしかいなかった

私はおじさんの存在すらもよく知らずに育ち
よく知ろうともしなかった
こんなに近くに住んでいたのに
一度も会いに行かなかった
会おうと思えばいつでも行けたのに
でももう遅い
おじさんは寒い冬の夜
ひとりで逝ってしまった

警察のひとが検視をしているあいだ
私はマイクと等々力渓谷に行った
おじさんが好んで散歩をしたコースらしい
そこを歩いて、等々力不動のベンチで
マイクは疲れた、と横になった

私は膝枕をしてやりながら
彼の首筋のぬくもりを確かめていた
さっき触ったおじさんの頬は
まるで氷のようにひんやり冷たく硬かった

生きているということは
それだけで本当に尊いことで
毎日誰かがどこかで命を落とし
それでも世界は動き続ける

今週末には東京でも桜が満開になるだろう
おじさん、もう少しで桜が見られたのに

悔やんでも悔やみきれない
春の冷たい雨の降る、三月最後の木曜日


Saturday, March 22, 2014

音楽を聴く耳と文章のリズム ー 村上春樹が言うところの、文章と音楽のの深〜い関係

「いつか土に帰る日までの一日」という谷川俊太郎の詩に最近出合い、英語に翻訳させてもらった。その中で一番好きなくだりがこれだ:

日記を書きたかったが眠くて書けなかった
一日の出来事のうちのどれを書き
どれを書かないかという判断はいつもむずかしい
書かずにいられないことは何ひとつないのに
何も書かずにいると落ち着かないのは何故だろう

I wanted to write a diary, but I was too sleepy to write
To decide which events of the day to write about
Or not (to write about) is always difficult
There is not one thing that I cannot live without writing
But why don't I feel at ease if I don't write anything?

この部分を読んだ時、「まったくだ!」とよく落語家が扇子でやるように、膝をぴしゃりと叩きたくなった。私は一日が終わる頃、書きたいことで頭がいっぱいになっている事が多い。最近では、ニュースにもなったベビーシッターについて、アメリカ事情と比較してどうして日本では健全なベビーシッター文化が成り立たないかを検証したり、東京で初めて出来た友達でカザフスタン出身のアイスルという医学生の事とか、銭湯にみる、服を脱いでも化粧を落としても美しい人の共通点とか、独断と偏見で綴る、日本よりアメリカの方が優れている物とか、米人の夫の日本語の間違いを指摘したら、私が崇拝するWorld Englishes的観点から「僕は僕のvarietyを喋ってるんだ。君はLinguistic Imperialistだ!」とまっとうな反論されて度肝を抜かれた事とか、この間行って来たハネムーンの事とか、それはもう書きたいことだらけで収拾がつかなくなっている。

谷川俊太郎が言うように、この中で書かずにいられないことは何ひとつない。書き始めたら意外と5行くらいであっけなく終わってしまうような、取るに足らない話題だらけなのかも知れない。でも何も書かずにいると無性に落ち着かなくなり、罪悪感にまで苛まれる始末だ。しまいには眠くなってベッドにもぐり込んでしまうのだが、朝起きてまたひとつ、ふたつ、と書きたい事が増え、リストは果てしなく長くなる一方なのだ。




ところで、今日書きたかったのは、書きたいことが山ほどある!という事ではない。今読んでいる本の事を書きたかったのだ。その本とは、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」という題の本で、2011年に出版された。小澤征爾が村上春樹の自宅で熱いほうじ茶を飲んでクラシックのCDを聴きながら音楽談義したものが、そのままふたりの会話形式で綴られている。ここで私が目を見張ったのが、村上春樹のクラシックを聴く耳についてだ。彼は専らジャズを好んで聴くひとだとばかり思い込んでいたからだ。彼の知識の深さにはマエストロも驚きを隠せないでいた。村上春樹は途中で、「文章と音楽との関係」について触れている。彼いわく、音楽的な耳を持っていないと、文章はうまく書けない。なぜなら、文章で一番大事なのはリズムで、リズムのない文章を書く人には、文章家としての資質はないからだそうだ。私はそこでやけに納得してしまった。私が村上春樹の文章が好きなのは、彼の持つ音楽的な文章から醸し出されるリズムを感じ取っていたからなのかも知れない、と。

そうやって自分が都合の良いように勝手に解釈したのには、理由がある。カクイウ私も音楽家の端くれだからだ。私は国立の音楽学部のある大学を第一志望としていて、ピアノから声楽、ソルフェージュ、聴音、音楽の理論が実技試験で課された。が、センター試験の結果がボロボロだったため、その大学には不合格になってしまった。浪人は経済的に無理だったので、第三志望の私立の大学へ進学したものの、周りの友達はサークルとバイトに明け暮れる毎日で、私は自分の居場所を見出せなかった。私は勉強がしたかったし、何よりピアノが弾きたかったのだ。そこで選んだ道は、アメリカへの留学。私の人生はそこで大きく変わった。

交換留学でお世話になったアーカンソーの州立大学で出会ったのは、スミス教授というピアノの先生だった。交換留学生は専攻は関係なく、基本的にどんな授業でも履修していいことになっていた。名門インディアナ大学のピアノ課で博士号をとったスミス教授は、ピアノ専攻の学生しかレッスンを持たないと聞いていたが、私はすぐにスミス教授のオフィスのドアを叩き、先生のもとでピアノを習わせて欲しい、と懇願しに行った。じゃあ、何か弾いてみなさい、と突然言われて弾いたのがショパンでもバッハでもなく、何を思ったか坂本龍一のEnergy Flow だった。その時暗譜していた曲がそれしか思いつかなかったのだ。弾き終わって恐る恐るスミス教授の表情を窺うと、「君はいい音を出す。いいピアニストだ」と即座に入門を認めてくれた。

本の前半で小澤征爾と村上春樹が、ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第三番について語っているのだが、小澤征爾がオーケストラとピアノの間の取り方について話している所がある。そこで小澤が『ティー・ヤター』とか『ティイーヤンティー』とか言っているのを読んで、懐かしくて笑ってしまった。スミス教授も、よくリズムの説明をする時に、『ティー・ヤッタッタ・ヤッタッタ・ヤッタッタター』とか言って教えてくれたからだ。それまで外国の先生に外国語でピアノを教わったことがなかった私には、そのティー・ヤターがとても新鮮で、本当のところを言うと初めの頃は吹き出すのをこらえるのに必死だった。だってスミス教授、大真面目な顔をして、ヤッタッタヤッタッタ言ってるんですもの!

そんな昔の出来事に思い出し笑いしながら、本の音楽談義に出て来る、内田光子の演奏(ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第三番、第三楽章)を最後に紹介します。小澤征爾曰く、内田光子は「本当に耳が良くて、音が実にきれいで、『思い切りがいい』ピアニスト」らしい。私も実は数年前、ボストンで彼女がモーツァルトのピアノ協奏曲を弾くのを生で見たことがあるので、彼女の音のきれいさについては知っていたが、この演奏を聴いて小澤征爾が言うところの「思い切りの良さ」も頷ける。気付くと前のめりになって聴いてしまっているような、人を惹き付けるパワフルな演奏だ。彼女もまた、質のいい文章家であるに違いない。







Wednesday, March 19, 2014

Living in Tokyo — 東京に住むということ

米国の大学院卒業を機に夫と結婚し、昨年の5月に夫の住むこの大都会、花のみやこ東京に引っ越して来た。それから一年近く経とうとしている最近になってようやく、東京に住んでいる、という「気」がするようになってきた。というのも、今まではどこか自分の居場所が不透明と言うか、東京に居を構えてはいるものの、吹きすさぶこの東京砂漠が日々吐き出すようにオファーしてくれるものの数々を、上手く消化しきれていない、そんな気がしていたからだ。

二月最後の金曜日、新宿のアパートで一人ラジオを聴いていた私は、たまたま合わせたFM局で流れていたに、こころを奪われた。少しハスキーな女性の声が所々日本語の混じる歌詞に乗せて心地よく耳に入って来る。J-Popという名の下で訳の分からないジャンルの音楽が氾濫する日本で、こんなにステキな音楽を作るひとが居たのか、これは一体誰なのだろう?と曲の終わりに歌い手が紹介されるのを、まだかまだかと待った。そのひとは、マイア・ヒラサワ、と言う日系スウェーデン歌手で、なんとたまたまその日、来日していて東京のスタジオに生出演していたのだ。その番組で、まさにその日の夜、代官山の書店でその人がミニライブを開く事を知り、次の日の朝一番の電車で帰郷するという予定も顧みずに、ひとりバスに乗り夜の代官山に向かった。


マイア・ヒラサワのミニライブのつい一週間前、私は夫と共に武道館に居た。彼の博士号の指導教官である教授が、突然都合がつかなくなったとのことで、あのエリック・クラプトンの来日初日公演のチケットを譲ってくれたのだ。前の日までまさかギターの神様を生で、しかもアリーナ席から拝めるなんて、思いもしなかったので、降って湧いて来たようなチャンスに戸惑いながらも、感慨深く演奏に浸った。



その週の初めには、アメリカで数年前に知り合った音楽家が、カナダ出身の若手注目ピアニスト(ヤン・リシエツキ)をFacebook上で賞賛しているのを見かけた。彼の演奏をネットで聴いてみたところ、稀に見るような透き通った音を奏でるのに魅了され、調べているうちに、その何週間後かに、彼のコンサートが東京で開かれるのを知った。しかもそのコンサート会場は新宿の自宅から歩いて15分で行ける場所だったので、即座にチケットを購入した。彼のコンサートはショパンばかりを集めたプログラムで、それはもう圧巻。後に彼とツーショットで(しかも水玉のmatching pairで)写真も撮らせてもらえた。



東京という街には、まるで寄せては返す波のように、毎日こうして世界のビッグスターが行き来している。瞬きをしている間に、もう引き潮だった、なんて気付かないでいることも多そうだ。東京が日々与えてくれる機会はコンサートに限らず多岐に渡る。でも常にアンテナを張り巡らしているなんて、到底私にはできそうにない。そういうところでやけにガメツくなりたくない気もする。では「ガツガツしているのは格好わるい」と言う妙なモットーがある私が、こうして気に入ったアーティストに連続して会えたのは、ただのマグレなのか?いや、本当に好きなものは、こうもっと心とからだの深いところで察知して、宇宙の引き寄せの法則か何かで、向こうからやって来るものなんじゃないか?いい加減に聞こえるかも知れないけど、私は結構こういう化学やら論理的な媒体で説明がつかないような事を信じるのが好きなタチだ。ラジオのダイアル目盛りがお気に入りの局を探し当てた時のように、やっと東京と私の周波数(frequency)が合って来たという事だろうか。