実家に帰省して一週間も経つと、いよいよ退屈になってくる。テレビも見飽きた。そこで二階の本棚から何冊か読みかけの本を持って来て、こたつに寝転がって一冊一冊読み潰していった。「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」(リリーフランキー著)はその中の一冊だ。
この本がベストセラーになった2005年。私は米国ケンタッキー州のはずれにある小さな町に住み、トヨタ自動車系列の会社に勤めていた。その年の暮れ、正月休みで一時帰国した時にこの本が目に留まり、買ってみて途中まで調子良く読んでいたものの、物語終盤でいざ「ボク」の「オカン」が死ぬ、という場面になってたまらなくなり、パタンと本を閉じたままになっていた。読んでいられなかったのだ。その時は、あと何日かしたらまた家族を残し、一人アメリカに戻らなければいけない、ということからか、親が死んでしまう話など読むに読めなかったのだ。あれから9年。私は帰国しまさかの結婚もして、両親も元気に同じ日本に住んでいる。今なら読めるだろう、と意を決して、そのしおりの挟まった本を再び開いた。
大きな間違いだった。何度となく涙で目の前の本の文字がかすみ、何度となく本を閉じた。親の死。親を持つ者には誰にも必ず訪れる、悲しすぎる出来事。できれば想像もしたくない。他人事に思っていたい。だからたとえ本の世界であっても、直面したくないのだ。そう実感した。
それでも涙を拭き、鼻水をかみ、何度も中断しながらもこの本を9年越しに読了することができた。物語の終わりに、「オカン」を亡くした「ボク」(リリーフランキー)は乗降客でごった返す東京駅にたたずみ、こんな風に綴っている:
『...今日も東京には、どこからか人が集まり溢れかえっている。
それぞれが...ひとりで生まれ、ひとりで生きているような顔をしている。
しかし、当然のことながら、そのひとりひとりには家族がいて、大切にすべきものがあって、心の中に広大な宇宙を持ち、そして、母親がいる。
この先いつか、或いはすでに、このすべての人たちがボクと同じ悲しみを経験する。
...人が母親から生まれる限り、この悲しみから逃れることはできない。
人の命に終わりがある限り、この恐怖と向かい合わずにはおれないのだから。』
当たり前の事だけれど、こうして文字にされると、しみじみと考えてしまうような文だ。
私は本を閉じて、こたつでテレビに夢中になっている親の姿を見た。
優しい言葉のひとつでもかけてあげたい。
「ありがとう」と言えるうちに何度も何度も言ってあげたい。
現実と向き合うのは、思ったより難しい。
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Sunday, January 4, 2015
読書感想文:東京タワー オカンとボクと、時々、オトン
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Friday, September 6, 2013
文芸評論:関谷英里子著「その英語こう言いかえればササるのに!」を批評します
関谷英里子著「その英語こう言いかえればササるのに!」青春出版社 (2013年8月15日発行)
また残念な本が出てしまった。関谷恵里子さんという通称「カリスマ通訳者」が最近出された本だ。彼女はこの本の中で様々な「日本人がおかしがちな」「間違った」英語を取り上げては、こう言いかえた方がネイティブには通じやすい、と「ネイティブ」目線の添削を繰り返す。
例えば、
日本人が言いがちな間違いとして、
×"Today, thank you for your time."
を挙げています。
「今日は、お時間をありがとうございます。」
このくだりを読んだ時の私の第一声は、「この文の何がいけないの???」でした。
関谷さん曰く、Today, と切り出すと今日は特別なアナウンスがあるのかと周りは少し構えてしまうらしく
"Thank you for your time today."
のほうがすっきりする、と添削されています。
一言いいですか?BIG DEAL!!
Todayが先に来ようと後に来ようと何の問題もなく通じます。あれ、先だっけ、後だっけ、どっちだったけな、なんて心配しているうちに肝心なお礼を言うのさえも忘れてしまうかも知れません。Todayが先に出て来ちゃったらそのまま胸を張って言えばいい。Todayと言ったからって、何かアナウンスがあるのかな?なんて誰も構えません。構える人がいたっていいじゃないですか、勝手に構えさせておけば!
他の例は、
×"I'm sorry for your worry."
という日本人が言いがちな文を挙げて、こう訳しています:
『心配してくれて残念です』
まず、この訳は大きな間違いです。sorryは確かに「残念だ」という意味もありますが、この場面では100%「心配をかけてごめんなさい/すみません」の意味で取られるでしょう。
そして関谷さんの添削がまたすごいんです:
"Thank you for your concern."
「心配してくれてありがとう」
と言ったほうがスマートです、と書かれています。
ここで関谷さんは"I'm sorry"と謝りたい日本人に対して、「心配してくれてありがとう」の方がスマート、と言っているのです。
もう一度いいですか、みなさん、日本人はとにかく謝りたいんです。心配かけてごめんね、って言いたいんです。決して、心配をかけてしまった相手に、心配してくれてありがとうなんて言いたくないんですよ。
これはもう日本文化のひとつじゃないでしょうか。大きなことを言ってしまうと、そういう人種なんです。謝りたいんです。
それと比べてアメリカ人は違いますよ、なかなか謝りません。謝ったら負けだからです。自分が間違っていても謝ったらダメなんです。裁判で訴えられちゃった時に損だし。
ここで関谷さんが言っていることは、日本人に、アメリカ人みたいになりなさい、って言っているも同然なんです。
確かに"I'm sorry for your worry"は不自然な英語なので、本人の意を変えずに直すとしたら、
"I'm sorry for making you worry"ですかね。でも、これもBIG DEAL!!です。
I'm sorry for your worryって言ったって100%通じます。
関谷さんは本の冒頭で、こう自負されています:
「いまは英語は何もネイティブスピーカーだけのものではありません。私は海外はアメリカ、イギリスはもちろんシンガポール、香港、インド、オーストラリアなどのアジアパシフィック地域やフランスやドイツなどのヨーロッパ諸国、イスラエル、クエートなどの中東諸国の人と英語で仕事上のコミュニケーションを取っています。」
ここでまず問題なのが、「ネイティブスピーカー」という言葉。イギリスやアメリカで80年代に生まれたWorld Englishesという分野では最もタブーな言葉です。というのは、シンガポールや香港、インドに住む人達も英語を生活の手段として使っているので、インド人だって立派な英語のネイティブスピーカーなのです。ところが、ここで関谷さんが言うネイティブスピーカーは、何処の国の人のこと指しているでしょう?イギリス、アメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドなどでしょう。英語はもはやイギリスやアメリカなどInner Circleの国のみに属するものではなく、英語を使う全ての人々に属するものなので、色々な英語が存在してもいい、その多様性を認めていこう、というのがWorld Englishesの根本的な考えです。アメリカではアメリカ英語を話し、インドではインド英語を話す、それでいいのです。
関谷さんは、仕事上色々な国の人達と英語でコミュニケーションを取られているわけですから、必然的に色々な訛り、表現やボキャブラリーに日々接しているはずです。そして、その国や地域独特の英語であっても、理解しようという姿勢をお互いに持っていれば、必ず通じ合えることも、身をもって経験されているはずです。ああ、インド英語はアメリカ英語とは違って、こういう時にはこういう言い方をするんだ、と学ぶ事も多いはずです。それなのに、それなのに、日本人の話す英語を日本語英語を認めようとせずに、「間違い」にしてしまう。もったいないとしか言いようがありません。日本人は日本独特の日本語英語を堂々と話せばいいのです。話す相手に理解してもらおう、という姿勢と、話す相手が理解しよう、という姿勢があれば必ず分かり合えます。なにもアメリカ人やイギリス人の真似をして「完璧な」英語を話さなくてもいいんです。だって、「完璧な」英語なんてもう存在しないんです。インド人が話すインド英語を「完璧じゃない」なんて言う資格はもはや誰にもありません。だって、英語はイギリスという国を飛び出した時点で自由の身になったも同然なんですもの。
最近この手の日本人の「残念で恥ずかしい英語」が取り上げられて、本にされてしまって、しかもそれが売れてしまう傾向があります。こういう本を読んで英語を学ぶ人や仕事で英語を使う人は「ああ、こう言わなければいけないんだ」とか「日本語から直訳したような表現では通じないんだな」なんて思って、ますます英語を使うことに消極的になるのではないでしょうか?または、この本で添削された表現を丸覚えして、いわゆる「ネイティブ」が話すような「ソツのない」「つまらない」「色彩のない」「個性のない」英語を使う事に一生懸命になって、肝心な「本当に伝えたい事」が伝えられないままになってしまうのではないでしょうか。
私は声を大にして言いたい!日本人らしい、日本文化を背負った、日本人独自の色彩を放つ英語をもっと胸を張って話そうじゃないかって。アメリカやイギリス目線でしか物を言うことができないほうが、もっと恥ずかしい。もっと自分の意見を持って、どうやってそれを自分らしく伝えようか、という事にフォーカスしたようがいいと思います。そして英語云々はさておき、自分の意見を持っていないのが、一番恥ずかしくて残念なことだと思います。
Thursday, June 27, 2013
Finishing Haruki Murakami is a job
Today I ever so reluctantly finished reading Haruki Murakami's new novel, "Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage". Why reluctantly? Not because I didn't enjoy it, but because I enjoyed it so much and I didn't want it to end. I bought it on my birthday two weeks ago and was reading itsy bitsy amount in bed every night, making sure not to read too much at a time. When I come to think of it, I never look forward to reaching the end of Murakami's books. Usually when I read a book, I can't wait to reach the end, so it's a weird feeling, but I always feel this way when reading Murakami. It's not that I don't want the end to come because I don't want the answers or secrets to be reveled and taken away from me. I never have to worry about that with Murakami. I could pretty much imagine how the ending would be. Abstract, obscure, as blurry as possible, questions remain unanswered, problems remain unsolved, and nothing on its surface changes, just like any other endings in Murakami's books. So why do I not want to finish reading Murakami's books? Because I simply enjoy reading what he has to say, sentence by sentence, word by word. Maybe it's kind of Zen, to enjoy the present moment and savor each word at a time. I like his choice of wording, utterly unrealistic and unnatural that you will have zero chance to encounter anybody conversing that way in Japan. This is why some people can't stand Murakami's books. However, his choice of unrealistic and unnatural wording and peculiar writing convention is perhaps what makes Haruki Murakami an irresistible writer. In "Wild Haruki Chase” (2008), a collection of literary reviews of Murakami works, Murakami states, “I have tried to write my novels using prose that I have constructed by first converting Japanese… into a mock foreign language in my head—that is, by clearing away the innate everydayness of language that lies in my self-consciousness” (p.30). So by "clearing away the innate everydayness", Murakami intentionally chooses to sound non-Japanese. A conversation between Tsukuru and Sara like this obviously is derived from "a mock foreign language" in his head:
「やれやれ、そんな時間が実際にあったことすら知らなかったな」「それで、誰が死んだの?」
"Whew, I didn't even know that such a time existed. So, who died?"
「誰もまだ死んじゃいない。でもどうしても今夜のうちに、君に言っておきたかったことがあったんだ」
"Nobody has died yet, but I really needed to tell you something tonight."
Though it may sound quite possible and rather natural in English, this is definitely not an everyday typical conversation that you would hear in Japan. I have never met anyone to this day who uttered 「やれやれ」"Whew" in Japanese. I think what keeps us Japanese readers float in the air of Murakami land is this dreamlike-non-everydayness that he creates for us to dive in. Once dived in, it is kind of an escape from everyday life, I suppose, or a kind of dream that we never wish to wake up from.
I wasn't particularly impressed with the title, "Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage", when the publisher first announced it. I still wasn't sure about the title or the book itself when I took it in my hand at the bookstore. Even after I bought it and brought it back home, I felt unsettled with my purchase. People around me (including my brother who's the biggest bookworm on earth) didn't seem to have bothered to read it and I hadn't heard the buzz about it on the Internet (Twitter, etc), so unlike the last time when 1Q84 was out in the world, I have to admit that my expectation was fairly low this time. "Nonetheless, it's Murakami, baby!" I needed to say to myself to get pumped up. After I studied the book cover, which is equivalently unimpressive as its title, I turned the page to Chapter 1.
It begins like this:
大学二年生の七月から、翌年の一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。
From July of his second year at college to January the following year, Tsukuru Tazaki lived thinking of almost nothing but dying.
It naturally and inevitably made me think of "No Longer Human" by Osamu Dazai, which is one of my favorite books of all time, thus this very first sentence —despite all the efforts and intention to be dark and depressing—gave me a good feeling and the book suddenly began to seem promising. That feeling was right and stayed until the end. The strangely unimpressive title soon made sense too. Though the ending didn't give any clue on what I was most interesting in finding out, and left it up to the readers, it was well anticipated from the beginning, and I wasn't disappointed at all. Overall, well done, and I'd say it was way better than 1Q84. But whew, or やれやれ、letting him go and closing the door behind this dreamland was so difficult. Finishing Haruki Murakami is a job!
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